最近、「ボランティア」についての話を聴く機会が多い。
皆さんは「ボランティア」をした経験がありますか?の問いから、今とこれからについて話が及ぶ。また1人暮らしの高齢者や身寄りのいない高齢者が増えるなかで、人の支えが必要な方が増えている現状、社会的には「ボランティア」を望んでいる。
しかし..だ。
このボランティアを行う余裕やゆとりがなくなってきている。という話を聴く様になった。
ある40代の女性が話をしてくださった。
「いまは、今を暮らすことで精一杯。もし、ボランティアをお願いされたとしたら、時間の搾取をしないでください。と言いたい!」
地域社会を見渡すと、「あの方、福岡市で働き、福岡市でボランティアをされているんだ」と思う方がいらっしゃる。年齢は75歳。団塊世代の方だ。
【なぜ福岡市まで行かれているのですか?】
『この町に仕事がないじゃないですか。もしこの町で働けるのならこの町で働きますよ』
と返ってくる。

物価が上がるが所得は増えない。所得が増えたとしても物価の上がり幅が大きく追いつかない。この追っかけっこ状態のなか、『ボランティアという言葉がなくなるかもね..』という話をされる方が出てきた。
もしこの町からボランティアが無くなったらどうなるのだろう?
どれ位のお金が必要になるのか? 町にはこの試算はないという。
一方、ウェルビーイングという言葉を社会でよく聞くようになった。
世界保健機関(WHO)では、ウェルビーイングのことを「個人や社会のよい状態。健康と同じように日常生活の一要素であり、社会的、経済的、環境的な状況によって決定される」と紹介されている。

先ほどのボランティアにおける話からすると、日本の社会状況はウェルビーイングな状態ではないように感じる。ではどうすれば良いか?
まず「対話」が必要だと思う。それもテーマを設けて。
志免町では『志免町民の生活支援を考える会』がある。会長は雨森優子さん。
認定看護師で、ホスピスマインドを経営する代表者の方だ。ホスピス・ターミナルケアの専門家である。
この雨森さんは『コンパッション・コミュニティ』を主張される。さらに言えば『思いやり共同体』をアメーバーのように繋ぎながら『コンパッションタウンを目指しませんか?』という主張だ。

最愛の方、大切な方、お世話になった方が、病気や介護で苦しんでいたとする。その苦しみを取り除いてあげたいと思う。何か私にできませんか..私にできる事は何でもしたい! そう思うのではないか?
その思いやる氣持ちと行動を、人と人の繋がりの中で少し手を伸ばし、『私の出来ることであれば!』と行動する。この拡がりを創っていくべきではないか?
しかしこれを繋ぐ必要性や大事さの認識が薄く、これを繋ぐ人が、いまの社会にはとっても少ないということが大きな課題になっている。
ここをボランティアでと考えるのか?仕事で?と考えるのか..
現在から今後に向けて、そこがわかるコーディネーターを輩出し、ウェルビーイングに生きれる社会環境として選択肢(仕事でもボランティアでも)を用意し、選択ができる様にする。そのことが大事ではないか?と思う。
皆さんはいかが思いますか? ぜひご意見をください。
