コミュニティという言葉があります。
この言葉の意味をインターネット辞書で調べてみると
『共通の目的や興味、地域などによって結びついた人々の集まり』と出てきます。
この『集まり』は、情報の共有、相互支援、意見交換などを通じて、その目的や興味を深め、また地域の絆を強化する役割を果たしている。
コミュニティは、その形態により地域コミュニティ、オンラインコミュニティ、趣味コミュニティなどと分類される。
地域コミュニティは、特定の地域に住む人々が形成する集まりで、地域の問題解決や地域活性化に寄与する。
オンラインコミュニティは、インターネットを通じて形成され、地理的な制約を超えて広範な人々が参加する。
趣味コミュニティは、特定の趣味や興味を共有する人々が形成し、情報交換や意見交換を行う。
これらのコミュニティは、参加者の社会的つながりを深め、個々の成長や学びを支える場になっている。
と出てきた。
戦前までの地域社会では三世代家族もしくは子だくさん家族が多かった。介護については、同居する子世帯が担当し、無償の愛として家族が担っていた。
戦後、復興が進むにつれ子供達が三世代家族を離れ、東京や大阪等へと就職し、人口分布が変わっていく。
そして現在、それに加えて超高齢化や子供の出生数が年々減少し、1人暮らしや身寄りのいない人が増えてきている。
『人生』を考えた時、人は誰しも老い、死に至る。
1人暮らしや身寄りのいない人が増えた場合、家族が行ってきた無償の愛は誰が担うのか?
昔は、自分が暮らす部落で葬儀を行っていた。
私の義父が亡くなった際は義父宅にてお通夜・葬儀が行われた。近隣の方々が総出で手伝い全てを行う。しかしこの慣習も、高齢化の波と若い世代の都市部への流失により無くなってしまった。
現在、その場所には90歳になる義母が1人で暮らしている。日頃からの見守りは、隣近所の方々が行ってくれるほか、近隣の方々や親類縁者が生活支援をしてくれている。いわゆる地縁コミュニティが残っている地域だ。
しかし、私が暮らす地域は、隣人が自治会に加盟していない世帯や中年夫婦のみの世帯、若い世代の夫婦、私と同年代で奥さんが1人で暮らす世帯が暮らしているが、ご近所付き合いというモノがない。言い換えれば地縁コミュニティというモノが存在しないと言っていい。
この様な時代のなか『地域包括ケアシステム』時代となった。
自助・共助・公助と説明されている。
その中で、私達、NPO法人志免地域支え合い互助基金が欠けていると指摘しているのは『互助・支え合い』である。これはどうしたらそういう社会となるのか?ここで悩んでいる。
それを考える中、『自助』の定義が年代によって違っているのではないか?という疑問を持つようになった。
『自助』とは自分のことは自分でする。なのか?
それとも、『自助』とは互助を引き寄せる力。なのか?
ここを地域社会で議論する必要を感じている。
地縁コミュニティによる『生活支援』が期待できないなか、その創造に固執することは間違っているのではないか?と最近特に思うようになってきた。
先日行われた『みんなの健康プロジェクト志免』のミーティングに於いて、『新規で地縁コミュニティを創る事をベースにするのではなく、今あるコミュニティに行政がやりたい・やろうとする政策のアンケートやモデル事業の実施、意識変容・行動変容の生み出しを行うことをベースに変えた地域がある』という情報を聴いた。
私は、この『事縁』で繋がり、関係性が深まっているコミュニティをベースにするこの進め方は現実的な方策ではないか?と思う。地縁コミュニティも大切であるが、ベースにはこの『事縁コミュニティ』を据えて、地域包括ケアシステムを推進させていく事が主流になり、そこからまたまた状況が変化し、面でのコミュニティから事縁を介在させた点でのコミュニティ(住まい方)をベースとするようになっていくのだと思える。
この議論を少しの余裕をもって話し合えるのは今しかないと思う。再構築は、少しのゆとりのある状況下で行うものだ。しりに火がついてからでは遅い。そう想いながらこのコミュニティ論議の場に参加をさせて頂いています。感謝。